ひと思考

a3.png「おらー!どけどけー亜熊様のお通りだー」

f2.PNG「わたし、ああいう大きな声を出す人って嫌い」

c1.png「エコちゃんは、大きい声が嫌いなんだねぇ」

g1.png「あたしも、ああいう偉そうな態度をとる奴って嫌いだなぁ」

c1.png「ギャルちゃんは、偉そうな態度が嫌いなんだねぇ」

a1.png「フン!てめぇらなんか、俺の方が嫌いだよ」

n1.png「バカだねぇ。そうやって悪態つくから、なおさら嫌われんだよ」


かうんさるーから一言
c3.png「悪態を憎んで亜熊を憎まず」

今回は『れた思考』『ない思考』に続くモンキークリニックオリジナル認知の歪み第三弾!
その名も『ひと思考』。・・・あいかわらず、ネーミングセンスがないね(笑)

(A)「わたし、大きな声の人が苦手で」
(B)「わたし、人の大きな声が苦手で」

2つの文章の違いがわかるかな?

(A)は、特定の「人」が苦手。
(B)は、特定の「声」が苦手。

どっちの意識の癖を持っている人が、社会で生き辛いだろうか。

どちらも苦手は苦手なんだけど、(A)の意識でいると、一度大きな声を出した相手は、その後ずっと、「大きな声を出す人」と意識されるから、とても会いづらくなるよ。
相手が大きな声を出していない時でも、「大きな声を出す人」として見てしまって怖くなるから。何も起きてない時から怖いんだ。
一方、(B)の意識なら、大きな声を出していない時には、まだ、かろうじてその人に会っていられるよ。人自体が怖いんじゃなくて、大きな声が苦手という意識だから。

ということで、この(A)のように、常に「どういう人か」を考えているような認知に偏っていることを仮に『ひと思考』と呼んでみたい。ひと思考は、1つの言動で、1人の人間の価値を決めつけてしまうこと。決めつけという点で、ひと思考は、『レッテル貼り』の亜型と言えるかな。

ポイントは、「人という全体を評価するか、言動という部分を評価するか」ということだよ。もう少し具体例を挙げてみよう。母親が息子の相談をする時の話し方の2パターン。

(A)「あーいうことする息子が受け入れられないんです」
(B)「息子のあーいうところが受け入れられないんです」

微妙な言葉使いや順序が違うだけで、意味がだいぶ変わってしまうんだ。
(A)だと、もう息子と同居していることが苦しくて、かつ、そんな自分への罪悪感もひどくて、「もうどうしたらいいかわかりません(泣)」という感じになる。
(B)なら、まだ同居自体が苦痛と言うほどじゃなくて、「普段は、息子にもいいところがあるんですけどね」という感じで話が続いたりする。
つまり、(A)は全否定。(B)は部分否定。

息子の存在そのものが嫌なのか、あるいは息子の言動の一部が嫌なのか。
それって、受け取る息子側からしてみると、結構大きな違いを感じると思わない?

落ち着いて考えてみると、人自体が嫌なのではなくて、相手の言葉や行動が嫌なんじゃないかな。もしそうならば、ちゃんと伝わるように言葉を使いたいよね。

他にも、『ひと思考』には、次のような言い方があると思うよ。
「○○する人って信じられない」
「あの人って○○な人だよね」

これは、他人に対してだけじゃなくて、自分についてもやってしまいがち。
「私って○○する人だから」
「○○な自分が許せない」

パーソナリティ障害の人は次のように言う。
「ダメな私を変えたい」

そうではなくて、せめて、次のように言い換えたいね。
「私のダメな部分を変えたい」

パーソナリティ障害の人が、自分にダメ出しはできても、反省して行動を変えていくことができないのは、『言動』という『部分』に意識が向かず、常に『人』という『全体』に意識が向き過ぎているから。

変えたいと言っても、全否定では、反省にならず、ただのダメ出しになるんだよ。そもそも人は変わりたくない生き物だし、まるごと変われるはずなんてないから、「私を変えたい」という意識では変わることができない。私そのものではなく、一部分だけなら、もしかして「変わってもいいかな」とか「変えてみようかな」って思えるかもしれないよ。部分否定というのは、裏を返せば、部分肯定という前提があるからね。「ここは変えた方がいいけど、変えない方がいいところもある」と思えた時はじめて、反省して行動を変えていくことができるんだよ。

「どういう人か」という見方ではなく、「どういう言動か」という見方に意識的に変えていこう。「何々をした誰々」ではなく、「誰々が何々をした」という話し方ができるようになろう。一部分だけを見て全体を決めつけないこと。1つの事柄で1人の人柄を決めつけないこと。そうしたら、いつか「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の意味がわかるかも。

ルールとマナーの違い

t1.png「あんたもうちょっとマナーくらい守んなさいよ」

a1.png「お前バカか?ルールも守ってねぇのに俺がマナーなんて守れるかよ」

c2.PNG「確かに。亜熊に座布団一枚」

t3.PNG「守るべき最低限のマナーってもんがあるでしょうが」

a1.png「守るべき最低限のことならルール化すりゃいいだろが」

c1.png「確かに。亜熊に座布団もう一枚」

t3.PNG「バカ猿!横からごちゃごちゃうるさい!病院では静かにするのがルールでしょ!」


かうんさるーから一言
c3.png「そっちの声の方がうるさいよ・・・」

ルールとマナーの違いってみんな知ってるかな?ルール違反という言葉は正しいけど、マナー違反という言葉は間違い、と言えばピンとくる人はいるかもしれないね。そう、マナーには違反なんてないんだ。マナーは個人の良識に委ねられた行為なので、強制力がなく違反ということもないわけ。言ってしまえば、やるもやらないも個人の自由ということ。

ということで、ルールとマナーの違いを簡単に説明するよ。今回は、「他人の言動に対してイライラしやすい人」「自分にダメ出しをしやすい人」には必見の回だよ!先に理由を書いてしまうと、「マナーの意味を取り違えてルール化していることがイライラやダメ出しの原因かもしれない」から。
『ルール』
・社会的にその場で守らなくてはならないこと。守らない場合には罰則が適用されるもの。
・守っていても褒められない。守らないと怒られる。つまり、守ってゼロ、守らなくてマイナスの評価がつくもの。

『マナー』
・社会的にその場にふさわしい行動をとること。ふさわしくない行動をとっても罰則はないもの。
・マナーがいいと褒められる。マナーが悪くても本来怒られる筋合いはない。つまり、守らなくてゼロ、守ってプラスの評価がつくもの(のはずなのにルールと混同して勘違いしている人が大勢いる)。

この勘違いが今回のポイントだよ。社会には「守らなくてはいけないルール」と「守ったほうがよいマナー」の2種類があるのに、全部をルールだと勘違いしてしまって、日常生活が窮屈で息苦しいと感じている人が結構いる。そういう人は、「○○をしてからでなきゃ、△△をしてはダメ」なんていうようなマイルールまで作り上げてしまって、朝から晩まで、自宅でも公共の場でもルール、ルール、ルール・・・、そんな風に縛られすぎて気が休まらなくなってしまって、うつ病になってしまったりもするよ。パーソナリティ障害の中では、強迫性パーソナリティ障害の人にもみられる考え方だから、どうにか修正していきたいところだね。(マイルールに関しては、認知の歪みのべき思考も参考に)。

さて、あらゆることがルール化された世界に生きる人は、「ルールを守ってゼロ、ルールを守らなくてマイナス」というプラスの評価の無い厳しい世界の中で生きることになる。どんなに頑張っても、ゼロ以上の評価がつかない、ちょっと気を抜くとマイナスの評価がつくなんて辛すぎるよね。

本当は、マナーの良いところがその人の長所であり、自信をもっていけるところのはずなのに、ルール化しちゃっているから、「自分のやっていることは当然」と思って評価せず、自信が育たない。また、自分がマナー違反をしていないかどうかばかり気になりはじめると、人と会えば緊張して、うまく振る舞えずに落ち込んだりする。逆に、自分が守っていることを相手が守らないと「マナー違反だ」と感じて、他人に対してやたらイライラすることが増える。

そこで、ちょっと考え方を変えて、「ルールは守り、マナーは守らない(悪くてよい)」というのが基本姿勢だと覚えておきたい。「それじゃ嫌な人じゃないですか?」と思う人もいると思うけど、それは違うんだ。ざっくり3つに分けて、次のように理解してほしいな。

・良い人=ルールを守って、マナーの良い人
・普通の人=ルールを守って、マナーの悪い人
・悪い人=ルールを破る人(マナーの良し悪しは関係ない)

真ん中の「マナーは悪くて普通」というのがポイント。もし、自分はマナー悪く振る舞うのはいやだと思うなら、あなたはきっと良い人の部類に入るよ。余力があるときに、マナーを良くすればいい。そしたらちゃんと、マナーが良い自分をほめてあげること。一方、他人に対しては、マナーが悪い人には口うるさく注意しないこと。優しく教えてあげるならいいけどね。ルールを破る人がいれば怒ってもよい逆に、マナーの良い人のことはほめてあげたらいい。そういう風に一つずつ区別していけたら、むやみにイライラすることも自分にダメ出しすることもきっと減るんじゃないかな。

余談だけど、世界的に見て、日本人はマナーがいいなんて評判になっているというニュースがあったりするよね。あれって本当のところはどうなのかな?実は、日本人は、マナーがいいんじゃなくて、マナーをルールと間違えて守っている人が多いから、結果的にそう見えちゃってるだけだったりして。「日本人はルールとマナーの区別もできないバカな民族だ」と思われないように、できればルールとマナーをちゃんと区別した上で、マナー良く振る舞いたいものだね。

配点の誤り〜完璧主義のカラクリ

a1.png「お前らこの間のテスト何点だった?」

t2.PNG「私は当然満点だったわよ」

g1.png「あたし、マイナス1点」

a1.png「俺なんて、マイナス89点だぜ・・・」

t3.PNG「あんた達、0点以下って・・・」

g1.png「うちらってほんとバカだよね」

c2.PNG「一体どんなテストを受けたらそんな点数がつくの?!」


モー先生から説明
sh1.png「ちょっと変わった配点で10問のテストを行いました」

配点は次のようなものです。
・正解すれば+1点。
・間違えれば−10点。


ぴすこさんは、10問正解だったので、
1点×10問=10点満点でした。

ギャルさんは、9問正解し、1問間違えたので、
(1点×9問)+(−10点×1問)=−1点でした。

亜熊さんは、1問正解し、9問間違えたので、
(1点×1問)+(−10点×9問)=−89点でした。

正解数と得点の関係は以下のようになります。
正解数012345678910
得点-100-89-78-67-56-45-34-23-12-1+10

そんなテストですから、ギャルさんなんかは9問も解けているので、得点はマイナスですが実は全然バカなんかじゃないということになります。普通の配点に戻せば、ぴす子さんは100点、ギャルさんは90点です。ただ、亜熊さんは普通の配点に戻しても10点なので、やっぱりもう少し勉強したほうがよいでしょう。


かうんさるーから一言
c3.png「このテストの配点はうつ状態の人の世界観を表しているよ」

ずいぶん恐ろしいテストだよね。こんな配点だと、全問正解以外はマイナスの得点になってしまうってこと。5問できていたのが、6問できるようになったとしても、マイナスには変わらない。7問できるようになったって、8問できるようになったって、それでもマイナス。どうせいくら頑張ったってマイナス。結局、完璧にできなければ意味がない、なんて思ってしまうのが、うつ状態だからね。つまり、うつ状態になってしまうポイントは、物事を捉えるときや評価するときの「配点」というところにあるんだ。

さて、もしもこんな配点を、日常生活の出来事に適用してしまっている人たちがいたらどうなるだろう?

例えば、今日は朝から子どものお弁当を作って、洗濯をして、その間に掃除機をかけて、お昼の準備をして、子どものお迎えに行って、その帰りに夕食の買い物にも寄って、ついでに、近所の人に先日もらったおすそわけのお返しを渡しに行って・・・なんてスケジュールだったとする。それを、まるでテストの問題のように捉えて一つ一つクリアしていこうと考えていた場合。

お弁当を作れた、+1点。洗濯できた、+1点。掃除機もかけた、+1点。お昼の準備をした、+1点。子どもの迎えに行った、+1点。夕食の買い物をした、+1点。でも、近所の人にお返しを持っていけなかった、−10点。

本日の総合得点、−4点。

結構頑張ったのにがっかりだね。「ダメな日」のできあがり。こんなんじゃいけない!と自分にダメ出しをして、次の日こそは、満点を取ろうと同じように予定をこなすけれど、やっぱり、何か一つくらいはやり残したことがあって、結果的に総合得点は次の日もマイナスに。そんな日々の繰り返し。たまには全ての予定をこなすことができるけど、だからこそ、「ほら、やろうと思えばできないはずはないんだ。できなかったのなら、自分の努力が足らなかったってことだ」という風に思い込んでいってしまう。

次第に、予定を課題のように感じて、予定があること自体が苦痛になっていく。ある日、何一つやりたくなくなる。その日の課題に手をつけ始めてしまうと、全問クリア以外は、0点以下になるからだ。少しだけやるということがどうしてもできない。「少しはできた」ではなく、「少ししかできなかった」としか思えないから。これは認知の歪みだね。

でもね、ほとんどのテストは減点方式じゃなくて加点方式なんだよ。自分の人生を振り返ってみて。間違ったらマイナスの得点がつくテストなんて受けたことがない人のほうが多いはずだよ。

できないことや失敗は、マイナスの得点がつくのではなくて加点されないだけ。できたら+1点。できなかったら±0点。つまり、次のように考えていきたい。予定を一つこなしたら、+1点。予定をこなせなかったら、±0点。減点はしない。人に親切にしたら、+1点。もしも、イライラして人に八つ当たりしても、±0点。そこでも減点はしない。仕事で失敗しちゃっても、±0点。・・・さすがに、うっかり犯罪を犯しちゃった時くらいは、マイナス点をしっかりつけておいてもいいけどね。

基本的には加点だけをしていくこと。減点なんて無い。そして、人生における出来事に誤った配点をつけているなら見直して、自然な配点に戻していこう。その配点を決めてしまっているのは、自分自身なんだから。

ない思考

n3.png「私なんか才能ないし、努力もしてないし、生きてる意味がない気がする」

c2.PNG「今までに、頑張ったことや、生きてる意味を感じたことは一度もない?」

n1.png「よくわからないけど、誰の役にも立ってないし、生きてちゃいけないと思う」

c1.png「そう思っていたら、自分のことが好きになれないのも仕方ないかもね」

n1.png「まぁ、最近はそんなに自分を嫌いじゃないけど、好きとは言えない

c1.png「じゃあ、今なや美ちゃんはどうしたいか、どうなりたいか言える?」

n1.png「ありえないけど、人と関わらないで、寂しくない状態になりたい。不安もなくしたい」


かうんさるーより一言
c3.png「ここでもない、あっちでもない、そっちでもない」


悩んでいる人の中には、「〜ない」という考えや口調が身についてしまっている人がいるよ。それを仮にモンキークリニックでは「ない思考」と呼んでみようと思う。「not思考」でもいいよ、好きなように名付けて意識してみてね。

「〜ない」というのは否定形だからあまり使わないようにしたい、と思っている人はいたりするんだけど、否定形だからという理由より、もっと意識してほしいことがあるよ。それは「〜ない」とは、「除外の表現」だということ。除外ってことは、裏を返せば特定していないってことで、例えばボクなら、「ボクは人間じゃない。犬でもないし、馬でもない。猫でもなければ、ウサギでもなくて・・・」という感じね。じゃあボクは何かというと「猿だよ」って言うことで初めて特定できるわけで、つまり、「〜ない」といくら言っても、ちゃんとそのものを表すことはできないってことを知ってほしいんだ。

これをやっていると落ち込むことにもつながるよ。再度、ボクを例にするね。「ボクは、医師じゃない。弁護士でもないし、消防士でもない。教師でもなければ、歌手でも、お笑い芸人でもなくて・・・」。そう思うと、「あれもできない、これもできない、なんてダメな奴なんだ」と気持ちが沈んでいきそうになるよ。だから、なるべく「ボクは臨床心理士だ」と日々意識することを心掛けているんだ。こういう意識は「アイデンティティ」と言われていて、自分を保ち、人生をどうやって生きていくかということに影響するね。

さて、気持ちについても、「〜ない」はなるべく控えていきたいもの。「これはやりたくない、あれもやりたくない」っていくら並べても、何がしたいのかということを表すことはできないからね。「あれは嫌い、これも嫌い」では、何が好きなのかいつまでもわからない。それでは、自分が何をしたくて、何が好きなのかっていう自分らしさ(これもアイデンティティ)が身につかないよ。

「〜ない」という表現は、使っちゃいけないわけじゃないけれど、使いどころをわきまえていないと、何が言いたいのかわからなくもなるよ。今、「使っちゃいけないわけじゃないけれど」ってあえて書いてみたけど、それより「使ってもいいんだけど」と書いた方が、ほんとはシンプルでわかりやすい。そういうのをわきまえて文章を書いたり、話したりできるようになると、混乱したり悩みすぎたりすることがなくなるかもね。

以下、「〜ない」の代表的なものと、言い直す時のコツ。
・わからない ⇒ わかってることは何だろう
・できない ⇒ どこまでできただろう
・やりたくない ⇒ やってもいいことは何だろう
・意味がない ⇒ 今は意味がなくても、やっておいたらいつか意味をもつかもしれない
・嫌いじゃない ⇒ 好きだ
・考えられない ⇒ 考えることはできる
・言えない ⇒ 結果が悪くなりそうなので言わないけど、言おうと思えば言える
・動けない ⇒ 最後まではできなそうだけど、第一歩として何かはできる
・何もしてない ⇒ 何かはしたはず
・悪くない ⇒ 良い

もっと具体的に書くと次のようになるね。
・「一週間とくに何もしなかった」は、「寝た」「起きた」「立った」「食べた」「何か見た」「何か思った」に言い換える。
・「何もしたくない」は、「休みたい」「寝ていたい」「のんびりしたい」に言い換える。
・「できませんでした」は、「考えてはみた」「取り組んではみた」「ほんの少しはできた」に言い換える。

つまり、
・何があるか、何をしたか
・どこまでできるか、どの程度できているか
・否定形を使わずに言い換える
みたいなポイントをおさえておけば、「〜ない」という表現は改善されるかも。

ここまで読んだ人は、こんな風に思えるかな?
「このサイトを見つけることができた。読んでみようと思った。いろんなことを考えることができた。気がついたこともあった。最後まで読むことができた」
こんな風に「ない」より「ある」ことに目を向けて物事を捉えられるようになったら、不必要に落ち込みすぎたりしないで済むようになるはず。


追記
「お金がない」って言うけれど、本当にお金がない人には会ったことがないよ。お金がないというのは、貯金も手持ちも0円ってことだからね。「時間がない」と言うのも同じ。「お金がない」や「時間がない」は認知の歪み。「お金が少ない」「時間が少ない」なら認知は歪んでないけど、もう一歩のところ。「お金が少しある」「時間が少しある」となるように考え方を治していけたらいいね。

れた思考

n3.png「ぶるどくたーに『お前は治る気がないよな』って鼻で笑われた

c2.PNG「そう言われたけど、言い返せなかった?」

n1.png「うん、反論して嫌われたらどうしようと思って言えなかった」

c1.png「言い訳したと思われたくなかったんだね」

n1.png「バカにされたままも嫌なんだけどね・・・」

c1.png「見捨てられたくなかったのかな」

n1.png「やられたよ、少しは期待してたのにまんまと裏切られた


かうんさるーから一言
c3.png「されたと思ってることの多くは、実はされていない」

「〜された」という表現は、受動態と言うね。そもそも、被害を受けた時に、受動態は役に立つ表現なんだけど、それが逆転して、受動態で話すクセが身についてしまうと、被害を受けてないものまで被害を受けた気になりやすくなるよ。これを、モンキークリニックでは、認知の歪みの『べき思考』にちなんで、『れた思考』と勝手に命名しようと思う。

『れた思考』は、境界性パーソナリティ障害の人にはかなり多く見られるよ。「あいつにはあれをされた、こいつにはこれをされた。あっちでもこうされた・・・だから、自分ではもうどうしていいかわからない」と話す彼らは、自分がどんなひどい扱いをされたか、という被害意識の塊のようなものを持っている場合が多いからね。そこから受動態で話すクセがついてしまっている気がするよ。

さて、次の文章を比較してみよう。

A)「私は彼に笑われた」
B)「彼は私を笑った」

この2つは、同じ出来事を別の言い方で表現しているんだけど、Aは私が主語で、Bは彼が主語。主語が違うから、Aは彼に笑われた「私の話」であり、Bは私を笑った「彼の話」になるという違いがあるね。わかるかな、Aの方が被害的に聞こえるはず。

Aの話し方ばかりする人は、受動態で被害の話、つまり愚痴、不満、文句が多くて、すぐに「傷ついた」という感覚になりやすいんだよ。そして、Aの話は「私」が主語なので、いつも自分の話ばかりすることになる。自分のことばかり、それもネガティブな内容ばかりじゃ、コミュニケーションがうまくいくはずないよね。

とくに境界性パーソナリティ障害の人は、自分で自分のことが定められないので、相手にされた行為から自分とはどんな存在なのかを見出そうとしがち。人から大切にされた、求められた経験が実感として少ないから、人から大事に思われたい、認められたいという思いが強い。だから、相手の言動を自分と結びつけることが多くなり、必然的に受動態も多くなって被害体験も増える。Aの「彼に笑われた私」という意識から、「私は、人から笑われちゃうような恥ずかしい人間なんだ」とマイナスの自己イメージを作り上げていってしまうことがよくあるんだ。

でも、Bの方で考えれば「彼が、人のことをバカにして笑うような人間」とも言える。そう考えれば、自分は別に恥ずかしい人間じゃないし、彼の方がどちらかと言えば恥ずかしい人間だよね。たまにはそんな風に思えるように、傷つきすぎない意識を身につけるために、自分が何をされたという言い方から、相手が何をしたかという言い方に変える練習をしていこう。これは、自他の区別がつけられるようになる練習の第一歩でもあるよ。ポイントは、「〜しやがった」という風に変えたり、「うわ」とか「へぇ」とか軽く驚く感じかな。

自分が主語 → 相手が主語
・「やられた」 → 「やりやがった」
・「言われた」 → 「へぇ、そういうこと言っちゃうんだ」
・「思われた」 → 「きっと、そう思ってんだろうな」
・「見られた」 → 「見たな」
・「聞かれた」 → 「聞いたか」
・「怒られた」 → 「うわ、そこで怒るか」
・「疑われた」 → 「それ疑うのか」
・「無視された」 → 「無視しやがった」
・「拒否された」 → 「拒否するのか」
・「笑われた」 → 「笑いたければ笑え」
・「フラれた」 → 「フリやがった」
・「嫌われた」 → 「嫌いなんだなぁ」
・「バカにされた」 → 「うわ、バカにしやがった」
・「スルーされた」 → 「スルーとかするんだ」
・「裏切られた」 → 「裏切りやがった」
・「見捨てられた」 → 「見捨てやがった」

みたいな感じで言い換えられるといいね。相手と自分をちゃんと切り離して考える。自分中心に物事を考えない。笑われようが、無視されようが、嫌われようが、裏切られようが、自分に傷はつかない。そういうことをされた自分が恥ずかしい人間なんじゃなくて、そういうことをする嫌な奴もいるとしっかり思って、『れた思考』を改善していこう。
タグ:認知の歪み

レッテル貼り〜認知の歪み(10)

b1.png「これだから、ゆとり世代はダメなんだよ」

g1.png「はぁ?!団塊世代のカタブツに言われたくないし」

tm1.png「まぁまぁお二人とも。ジェネレーションギャップってやつですから」

a1.pngロスジェネ世代がジェネレーションギャップを語ってやがる。プププ」

t1.png「出た、KY発言。何が面白いのか意味不明」

k2.PNG「なんだかここにいる殿方は、本当にだめんずばっかりねぇ」

n1.png「だめんずって古っ!アンタもさすが、イキオクレ女子だね」


かうんさるーから一言
c3.png「レッテルって流行語になりやすいのかな?」

レッテル貼りは、マイナスイメージを喚起する言葉で人のことを決めつけること。レッテル貼りは、他人へのものと、自分へのものがあるよ。自己愛性パーソナリティ障害の人は、他人にレッテルを貼りがちで、境界性パーソナリティ障害の人は、自分にも他人にもレッテルを貼りがちだよ。

・「アイツは、○○だから」
・「私って、○○だから」

ただ、どんな人でもレッテル貼りを一度もやったことがないなんて人はいないだろうな。ついつい、嫌だなと思った相手に対してやってしまいがちだよね。まずは、どうして他人にレッテルを貼ってしまうのかについて考えてみよう。

人は、自分に理解できない物事に対しては不安を感じてしまいやすいもの。「わからない」「理解できない」という状態が苦手なんだ。そこで、わからないものをわかるものに変えるために、細かい点は端折ってわかりやすくしようとする。大ざっぱに、わかりやすく特徴を捉えた短い単語を探したり、無ければ生み出すということになる。

そもそも、不安を感じないようにするためなので、自然と、価値の低い、取るに足りない、見下した感じの言葉に近づいていく。そうして、「ああ、アイツは○○だからな」というレッテルに落ち着く。つまり、「自分にとって理解できない人間は、危険かどうかわからない。そこで、その相手をくだらない、馬鹿げた、価値の低い人間だと思い込み、かつ周知させてしまうこともできれば、自分は怯えずに過ごせるはずだ」というのが、レッテル貼りを行う歪んだ心理ということになるね。異分子を排除する心理ともいえる。「自分はわかってる側の人間なんだぞ」と周りに思わせられれば、ナメられずにも済むしね。

噛み砕いて言えば、レッテルを貼る人は、「知らない」「わからない」ということを恐れている人。一言でいえば、臆病な人。一見、レッテルを貼る人は、強気で、攻撃的で、声も大きく、批判的だったりするんだけど、実は、先に相手のことを低めておかないと、自分が安心できないという人なんだよ。「アイツは、チキン(小心者/臆病者)だからな」なんて言う人こそ、実はチキン。自分に自信がないから、人の価値を下げておかないと安心できない。逆に、自信がある人は、相手を低める必要がないから、そういうことは言わないもんだよ。他人の話ばかりする人には、近づかないようにしたいね。

さて次に、自分に対してレッテルを貼る人の心理。

これは、落ち込んでいる状態で本当にそう思ってしまう場合と、これ以上他人から攻撃されないように自らレッテルという殻にこもる場合の2種類があると思うよ。

・「私は、臆病な人だから」

例えば、うつ病や不安障害の方がこういう言い方をするけれど、そうすると、臆病じゃない行動を取りづらくなってしまうことがよくあるよ。「私は、臆病な人だから、大胆な行動はとれない」という風に自然と文章が続くので、「たまには大胆に行動してみようかな」というチャレンジする気持ちがまるで起きなくなる。自分にレッテルを貼ると、そのレッテルに近づいてしまうという側面があるので、あまり自分について決めつけてしまわないことが大事だね。

また、こういう自分へのレッテルは、チャレンジしないことを、「サボっているのではなく、性格の問題だからできなくても仕方がない」と正当化できるというメリットもあるね。性格の問題は、努力の問題に比べて責められにくいから。だから、レッテル貼りは、自分で自分を縛る言葉でもあり、他人の攻撃から身を守る言葉にもなるってわけ。ただ、チャレンジしないってことは、結果的に自分にとってあまり良いことにはならないので、やっぱり、自分で自分の首を絞めているってことになってしまうんだけどね。

と、そんな感じで、レッテルを貼ってばかりいる人は、周りの人から「レッテルを貼ってばかりいる嫌な人」ってレッテルを貼られてしまうかもしれないから気をつけようね(←ややこしい)。

認知の歪み全般に言えることだけど、とにかく使う言葉や話し方を変えていくことがポイントだよ。まずは、実際に喋る言葉を変えていくことで、次第に頭の中での言葉遣いも変わっていくはず。そうすると、物事の捉え方や感じ方が変わってくる。「自分では、○○と思っているけど、△△という一面もあるかもしれない」とか「あの人は、○○という部分もあるし、△△という部分もあるね」なんて言い方ができれば、認知の歪みは少なくなったと言えるかな。今日からでも、あきらめずに少しずつでも歪みを修正していけたら、いつか心に平穏がやってくるかも。


※用語リンク(ウィキペディア)
ゆとり
ロスジェネ(ロストジェネレーション世代:就職氷河期世代)
KY(空気読めない)
だめんず
イキオクレ女子会@ピカルの定理


認知の歪み
@白黒思考
Aマイナス化思考
Bべき思考
C感情的推論
D飛躍的推論
E部分的焦点づけ
F自己関連づけ
G過度の一般化
H過大評価・過小評価
Iレッテル貼り

過大評価・過小評価:認知の歪み(9)

k3.png「ギャー!出たー!誰か来て!!!」

sh1.png「どうしました?!」

k3.png「アレよアレ!ついにアレが出たのよ、うぅ、もうココも終わりだわ(泣)」

sh1.png「アレってもしかしてアレですか?!」

k1.png「そうよアレよ!アイツがカサカサっと猛スピードで私の前を横切ったのよ」

sh1.png「わかりました。第一種戦闘配備を発令します。すぐに皆を集めて、緊急対策会議を」

n2.PNG「おいおい。んな、大袈裟な」


かうんさるーから一言
c3.pngごきげんよう、おひさしぶり」(伊坂幸太郎『魔王』より)

過大評価は、誇大視、拡大解釈とも言われているけど、ここでは過大評価・過小評価で統一するよ。

過大評価・過小評価は、物事を大きく捉えたり小さく捉えたりして、ありのまま客観的に判断できていない状態のことを言うんだけど、この認知の歪みは、果たして歪みと言っていいのかわからないな。というのは、健全な人であっても、物事を適切に評価できているかといえばそうでもないからね。何をもって適切というのか、過大評価でも過小評価でもないと誰が判断できるのか、そういう難しさを含んだ認知の歪みってわけ。逆に、多少認知が歪んでいるくらいのほうが人間らしいとも言えるしね。常に、物事をありのまま客観的に判断できるなんて、心の無いマシーンって感じがするでしょ。

まずは、過大評価の例。「ゴキブリを1匹見たら30匹いると思え(※1)」
このフレーズってなぜかみんな知ってるよね。これは、1匹しか実際には見ていないのなら、「ゴキブリが1匹いた」、「ゴキブリを1匹見た」とだけ言うのが客観的であるということ。それなら認知の歪みが無いということになるね。そう思える人は、ゴキブリの話だけじゃなくて、いろんなことに不安になりすぎないで生きていける人だと思うよ。2匹目、3匹目を見つけても、その都度落ち着いて対処していけるだろうし。一方、「1匹いたんだから30匹いるかもしれない!」と思ってしまう人は大変だね。もう落ち着いて寝られやしない。あっちの隅にも、こっちの隙間にも、そっちのタンスの裏にもまだ見ぬ29匹ものゴキブリがいるかもしれないんだから。ゾッとしちゃうよね。あと、ゴキブリは数的にも過大評価されやすいけど、能力的にも過大評価されやすいね。「人類滅亡後にもゴキブリは生き残る」と言われたりするけど、実は、そんなにゴキブリはすごくない。人類と一緒に滅亡するかもしれないし、ゴキブリより生き残る可能性のある虫もいるらしい。気になる人はウィキペディアでゴキブリについて調べてみよう(←クリック注意:ゴキブリの画像があるよ!)。
※1 ゴキブリは一回で30個程の卵を産むことからこう言われている。

逆に、過小評価の例。これもゴキブリで考えてみよう。
例えば一日にゴキブリを30回も見たのに、「平気平気、多分同じゴキブリだから」なんて1匹しかいないと思うのは、過小評価すぎるよね。のんきなことを言ってないで、ちゃんと片っ端から退治したほうが衛生上好ましい。ただ実は、悪い出来事を過小評価するとポジティブな考え方になるっていうことは覚えておいたほうがいいかな。多くの人が、ポジティブに考えられるようになりたいと願っているけれど、それって実は、「歪んだ認知を身につけたい」と言っているのと同じようなものなんだよ。ポジティブに考えすぎる人は、楽観主義的で危機管理能力が低い、ということにもなりかねないから、それはそれで考えものだと思うよ。

もう一つ、過小評価の例。「アイツはゴキブリ以下の人間だ」
これは個人をかなり過小評価してるね。ひどい言いようだ。逆に、こういう事を言う人は、自分のことを過大評価していたりするよ。過大評価と過小評価はセットで働いているってことはけっこう多いから、ゴキブリの例じゃなくて少し真面目に説明しておくよ。

例1:Aさんが失敗した。その後、私も失敗した。
・Aさんは、本来、能力があるのに運が悪くて失敗した(Aさんを過大評価)。
・私は、Aさんの失敗を活かすこともできず、無駄に失敗を繰り返した(私を過小評価)。

実際には、Aさんも私も失敗したのだから、その時点での評価に差はないはずだよね。けれど、「私よりAさんの方が優れているはずだ」という思い込みがあると、物事の捉え方が歪められてしまう。言葉の上でのポイントは、「本来は○○のはずが」とか「本当は○○なのに」という言い方かな。これは、どちらも現実を受け入れていない言葉。こうした現実に起きた出来事よりも、想像や予想、思い込みを優先して考えてしまうのは、認知の歪みと言えるね。

例2:私と同じ悩みをBさんがもっていた。
・「Bさんなら解決できるよ」と声をかけた(Bさんを過大評価)。
・Bさんにはそう言ったけど、私には解決できそうにない(私を過小評価)。

同じ内容なのに、他人には言えても自分には言えないというケースも過大評価・過小評価が関係していることが多いよ。特に、悩みごとに関しては、自分の悩みというのはとにかく大きく感じるもので、自分には解決できる力が無いと感じやすい。「人生終わった」とか、「一巻の終わり」という言い方も、うまくいかない出来事を過大評価し、自分の能力を過小評価している言い方だね。そういう風に過大評価と過小評価はセットになると、強力になって厄介なので、なるべく今の内に改善しておきたいものだね。

じゃあ、過大評価・過小評価という認知の歪みを改善するにはどうしたらいいか。過大評価・過小評価は、「主観」が問題なので、主観を排除すればいい。人間の考えで最も主観が現れるところはどこかというと、それは修飾語。ということで、修飾語を用いないで考えることが一つのポイントになるんだ。次の2つの文章を見比べてみてほしい。

A:「昨日、とんでもなく大きな失敗をしてしまった。当然、相手は烈火のごとく怒っていた。この先ずっと、その人とうまくやっていけるかどうか、自信がこれっぽっちもない」
B:「昨日、失敗をしてしまった。当然、相手は怒っていた。この先、その人とうまくやっていけるかどうか、自信がない」

Aは絶望的な感じがするよね。こうした話し方をするのは、パーソナリティ障害の方や不安の強い方に多いんだ。表現力が豊かではあるんだけど、それゆえ、感情も大きく揺さぶられてしまう。逆に、Bのように修飾語を用いなければ、事実だけを抽出できる。この方法は、ポジティブに考えられるようにするのが目的ではないから、「自信がない」ことに変わりはないんだけど、Aよりは、Bの方がなんとかやっていけそうな気がするんじゃないかな。自分の口癖や話し方が、不安や不満、自信の無さに拍車をかけていたりするので、紙に書いて修飾語を消していくのもよいし、カウンセリングで話して、カウンセラーに指摘してもらうのもよいね。こうしたことを自分一人で、頭の中だけで整理するのはほとんど不可能だと思うよ。

最後に余談だけど、この記事を書くにあたり、ゴキブリを1匹見たら何匹いると思えだっけ、と思って「ゴキブリを1匹見たら」で検索してみたら、10匹、20匹、30匹、50匹、100匹、1000匹と各人バラバラだったよ。ボクは30匹だと思ってたけれど、一体何匹がこのフレーズの正解なんだろう?



認知の歪み
@白黒思考
Aマイナス化思考
Bべき思考
C感情的推論
D飛躍的推論
E部分的焦点づけ
F自己関連づけ
G過度の一般化
H過大評価・過小評価
Iレッテル貼り

過度の一般化:認知の歪み(8)

k2.PNG( O型 )「この間合コンに来た人が最悪でね。もしやと思ったら、やっぱりB型

n1.png(AB型)「あー。いつも思うんだけど、B型の男性って自己チュー多いよね」

a2.png( B型 )「あぁ?!それを言うなら男より、女のB型の方が手に負えねーよ」

g1.png( B型 )「はぁ?!亜熊マジうざい。あんたのB型は『バカ』のBだね、バカ型」

sh1.png( A型 )「いや、案外日本は甘えの文化ですから我儘な人自体が多いのかも」

t2.PNG( A型 )「確かに、外国人は自己主張が強いけど、我儘って感じはしないわね」

f1.png( O型 )「うーん。結局、人間なんてみんなくだらないエゴの塊ってことですよ」


かうんさるー(B型)から一言
c3.png「まともなB型もいるよ!ココにいるよ!」

過度の一般化は、自分の数少ない経験から、誤った一般論を導き出すことを言うよ。この過度の一般化は、他の認知の歪みに比べて、“ごくありふれた認知の歪み”と言えるかな。むしろ、この認知の歪みが全く無い人のほうが少ないかもしれない。誰と話している時でもいいから、少し注意深く人の話を聞いてみるといいよ。驚くほど、会話の中に出てくるから。もしかしたら、自分でも言ってるかもしれないしね。主なものは次の2種類。

A)「1回〜数回」を「いつも、だいたい」と言う
B)「1人〜数人」を「みんな、ほとんど」と言う

例えば、「いつもうまくいかない」とか「いつも失敗する」とか、ついつい言っちゃうよね。でも、本当はいつもじゃない。うまくいく、成功する時もある。「ぶるどくたーって、いっつも鼻くそほじくってるよね」とかも言いたいけど、正確には、一日中鼻くそほじくってるわけがない。たまには鼻毛を抜いている。だから「いつも」じゃない。でも、ざっくり「いつも」って言いたくなるんだよね。わかっていて使う分にはいいんだけど、これが本当に認知の歪みレベルになると、少し厄介なことになってくるから修正したほうがいいかな。次のは「みんな」の例。

・○○大学出身には嫌な奴が多い
・片親(一人親)の子どもはグレる
・最近の若者は常識がない

どれも間違いだよ。

大切なのは先入観にとらわれずにちゃんと目の前のその人だけを見ること。ひとくくりにしないこと。「いや、でも、実際そうなんですよ」と反論してくる人がいるけど、“実際”には違うから。捉え方や視野が狭いだけだから、上記のような過度の一般化はやめようね。あと、“迷信”は、大昔にされた“過度の一般化”の名残かもしれないなーとか考えると少し面白かったりするよ。いろんな迷信があるけど、ぱっと思いついたところで説明してみよう。

・黒猫が横切ると悪いことが起こる
・夜、爪を切ると親の死に目に会えない

とある村。黒猫が横切った後に、たまたま不幸なことが起きた人がいて、「黒猫のたたりだ!」とか大騒ぎしたんじゃないかなぁ。それを聞いた村人達が、「そういえば私にもそういうことがあったわ!」「オラにもあっただよ!」と次々に言いだして、ついに村長が「よし、黒猫が横切ったらいつも悪いことが起こっているらしいので、各自そういう時は心の準備をしておくように」と村民に伝えたり…。

江戸時代頃。夜、爪を切っている時、疎遠になっていた親が危篤状態になったと連絡があり、急いで行ってみたものの親の死に間に合わなかったという人がいたんじゃないかな。その人はとても後悔したので、町の人々に「オイラみたいにならないように、親のことは常に気にかけておいた方がいいぞ。あぁ、あと爪は朝切ったほうがいい」とか言って回っちゃったりしたのかもしれない…。

いや、ただの作り話だけどね。本当の由来は知らないよ。迷信っていうのは、一度はそういうことがどこかの誰かの身に起きたことで、それが一般化されちゃったんだろうなって話。

やっぱり、「一見」しただけで、全てわかった気になるのはよくないよね。「百聞は一見にしかず」と言う諺があるけれど、カウンセラーとしては、「一見は百聞におよばず」と言いたいところ。カウンセリングでは一見が叶わない、つまり、クライエントが体験した出来事をどうしたって見ることができないからね。見られないから、100回でも200回でも同じ話を聞いて一見に近づくしかない。それでも、なかなか“理解”なんてできない。でも、その過程には「一見」で得られない何かがある。はず。と思いながら、一般化せず、目の前のたった一人のクライエントの理解に努めていきたい、なんていうところで今日はおしまい。



認知の歪み
@白黒思考
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C感情的推論
D飛躍的推論
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F自己関連づけ
G過度の一般化
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b1.png「ん?ワシもB型だぞ。…『ですよねー』ってオイ、何か文句あるか?」

自己関連づけ:認知の歪み(7)

b1.png「最近、なや美は落ち着いてきたんじゃないか?」

c1.png「そうですね。だいぶ、話をしてくれるようにもなってます」

b1.png「あれは多分、ワシが診てやってるからだろうな」

c1.png「ええ、『人の役に立ちたい』と素直に言えたりもしてますよ」

b1.png「それも多分、ワシのようになりたいってことだろうな」

n1.png「おい、ジジイ。何勝手なこと言ってんだ。自分に結び付けるなよ、バカ」

b2.PNG「む、全然治っとらんじゃないか。どうなってんだ、かうんさるー」



かうんさるーから一言
c3.png「都合の良いことだけを自分に関連づけて生きていけたら幸せだろうなぁ」

自己関連づけは、自分に結び付けて物事を考えてしまう認知の歪みだよ。ぶるどくたーとは反対で、主に、悪い出来事を自分に結び付けてしまうことを言うんだ。

例えば、朝、いつものように会社の同僚に挨拶をしたとき。普段は明るい同僚が、その日に限って、なぜかとても不機嫌そうに、顔も見ずにぼそっと「おはよ」と言ったとする。

そんな時、あなたは頭の中でどんなことを考えるか。

(A)「あれ?今日は不機嫌そうだな。何か嫌なことでもあったのかな」
(B)「え…?私、何か嫌なことでもしちゃったかな」

この(B)が、自己関連づけという認知の歪み。でも、これくらいは割と多くの人が考えるから特徴がわかりづらいかな。もっと極端な例を挙げてみよう。

例えば、仕事中、遠くで誰かが上司に怒られていたとする。それを見たらどう思うか。

(A)「あの人、何か失敗しちゃったのかな」
(B)「あの人が怒られてるのは、もしかしたら、私が何かミスをして、そのせいで怒られちゃってるのかもしれない」

この(B)くらいになると認知の歪みって感じが出てくるかな。つまり、兎にも角にも「私が原因?」と真っ先に思ってしまうのが、自己関連づけの特徴と言えるね。

この特徴を持っていると、いろんなことを自分に結び付けて考えてしまうので、とても疲れてしまうよ。
「○○さんが落ち込んでいるのは、私が何かしてしまったからじゃないか」
「△△という商品が届かないのは、私の発注の仕方が悪かったからじゃないか」
「□□という問題が起きたのは、私の不注意が原因だったんじゃないか」

数え上げればキリがない、というか、いくらでも生み出せるのが困ったところだね。良く言えば、「反省できる人」なんだけど、悪くない事まで反省する必要はないはず。目にした出来事全てを自分に結び付けて生きていくのはとても心がもたないよ。

時にはドライに「私には関係のないこと」と思える時があるといいね。

逆に、認知の歪みとして挙げられることは無いけれど、関係のないことを「自分のおかげ」と言う人も、自己関連づけという認知の歪みを持っているんだと思うよ。先の会話の、ぶるどくたーのようにね。

例えば、職場の雰囲気が良い時、上司は「自分が部下達に声をかけているから良い雰囲気になっているんだ」と吹聴したりする。だけど実際は、各人が良い人間関係を作っているというのがとにかく大事なわけで、上司の声かけでうまくいってるなんて錯覚もいいところ。なんだけど、職場の雰囲気が良いから、上司の認知の歪みは問題にならない。ちょっとウザい勘違い上司というくらいで済まされる。

もしかしたら、認知は、ちょっとくらい良い方に歪んでいた方が幸せに生きられるのかもしれないなぁ。



認知の歪み
@白黒思考
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部分的焦点づけ:認知の歪み(6)

k1.png「最近、目尻のシワが気になるのよー」

c2.PNG「えー?全然、目立ちませんよ?」

k2.PNG「ほら、ココよココ。薄く線ができ始めてるでしょ」

c2.PNG「うーん、そう言われれば、うっすらと…?」

k1.png「シワさえなくなれば、ワタシもまだまだイケてると思うんだけどな」

n1.png「いや〜、それがなくなってもオバサンはオバサンだよ」

k3.png「まぁ、ひどい!失礼しちゃうわね!」


かうんさるーから一言
c3.png「なや美ちゃん。歪んだ認知は、そのままにしておいてあげるのも優しさだよ」

部分的焦点づけは、自分が気にしている部分にばかりとらわれて、全体を見ることができなくなる認知の歪み。焦点(フォーカス)を当てすぎてしまうってことね。全体と部分の関係は相反しているのが前提で、@『全体的には失敗しているのに、一部うまくいっているところしか見えなくなる』、A『全体的には成功しているのに、一部うまくいっていないところしか見えなくなる』の2パターンがあるよ(「成功」と「失敗」は「良い」と「悪い」等に置き換えてもOK)。

@は、ポジティブ過ぎる人、悪く言えば、反省しない人や自慢しがちな人に当てはまるよ。
例えば、傍から見るとうまくいってないように見えるのに、本人は「いいの、これで」と言い張ったりする。自分が注目しているところこそが重要な部分で、そこがうまくいってればよくて、その他の部分は大した価値が無いように思えて目に入らない。だから、全体的には失敗していてもうまくいっていることになってしまい、結果的に改善しようとしない。本人にとっては問題ないんだけど、周りはやきもきするよね。なんでもかんでも前向きにポジティブに、っていうのは良い面ばかりじゃないんだよ。視野を広くもって、失敗している部分があれば認め、反省するところは反省できるようになりたいものだね。

Aは、逆にネガティブ過ぎる人、例えば、抑うつ的な人や不安がちな人に当てはまるよ。
極端に言えば、99点とったのに、1点間違えてしまった問題のことばかり気にして落ち込み、“99点とれた”という事実が見えなくなってしまうこと。テストの点数の例えなら、「そんな1点気にすることないのに」とか「99点とれたなんてすごいじゃん」と言う人が多いとは思うけど、これを対人関係に当てはめると、そうは言えない人が増えてくるよ。

対人関係では「誰にも嫌われたくない」と思っている人が案外多くてね。「ある人に嫌われている気がする」と悩み始めると、なんとかその人に嫌われないようにあれこれ考えて、不安になったり、落ち込んだりしてしまう。「あぁ、嫌われちゃったなぁ」なんてなかなか流せない。どうやら誰かに嫌われることは、それがたった1人だとしても、1点間違えることより断然受け入れがたいことみたいなんだよね。

でも、誰にも嫌われないようにするって現実的かな?対人関係で100点取るなんて可能なのかな。実際には、好かれたり嫌われたりすることがあって当然じゃないかな。あと、一度嫌われたらおしまいじゃなくて、関係が改善したりすることもあるんじゃないかな?

悩んでしまったら、99点のテストの例えを思い出してみよう。そして自分の人生を振り返ってみよう。自分は今までに99人(とはいかないまでも大多数の人)とは良好な関係を築けてきたはずだ、と。今、嫌われてしまったかもしれない1人だけに焦点を当てるんじゃなくて、「良好な関係を築けた人が99人もいる」という方に焦点を当てられれば、認知の歪みは改善され、嫌われたと思って落ち込みすぎることは減るかもしれない。

必ずとは言えないけれど、カウンセリング(特に認知療法)を受けると、そういう風に“物事の見え方”が変わることがあるよ。事実は変わらなくても、見え方が変わって、気持ちが変わる。そういうのは体験してもらえないと、うまくは伝えられないけどね。百聞は一見にしかず。体験した者勝ち、と思い切って相談に行ってみるのもいいと思うよ。

※余談だけど、こういう例え話を書くと「99人に嫌われる私はどうしたらいいですか?」って質問がきたりするんだよね。だから先に回答を書いておくよ。

「そうなったら、それはもう認知の歪みじゃなくて、パーソナリティの歪み。カウンセリングが必要です」



【追記】
美容整形を繰り返す人の心理にも、部分的焦点づけという認知の歪みがあるかもしれない。一カ所直しても、また、気になるところが出てきてしまうからね。精神疾患としては、醜形恐怖や自己臭恐怖も部分的焦点づけが関係するかも。というよりも、部分的焦点づけが固定化してしまうと「妄想」ということになるのかな。



認知の歪み
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