「わたし、ああいう大きな声を出す人って嫌い」
「エコちゃんは、大きい声が嫌いなんだねぇ」
「あたしも、ああいう偉そうな態度をとる奴って嫌いだなぁ」
「ギャルちゃんは、偉そうな態度が嫌いなんだねぇ」
「フン!てめぇらなんか、俺の方が嫌いだよ」
「バカだねぇ。そうやって悪態つくから、なおさら嫌われんだよ」
かうんさるーから一言
「悪態を憎んで亜熊を憎まず」
今回は『れた思考』『ない思考』に続くモンキークリニックオリジナル認知の歪み第三弾!
その名も『ひと思考』。・・・あいかわらず、ネーミングセンスがないね(笑)
(A)「わたし、大きな声の人が苦手で」
(B)「わたし、人の大きな声が苦手で」
2つの文章の違いがわかるかな?
(A)は、特定の「人」が苦手。
(B)は、特定の「声」が苦手。
どっちの意識の癖を持っている人が、社会で生き辛いだろうか。
どちらも苦手は苦手なんだけど、(A)の意識でいると、一度大きな声を出した相手は、その後ずっと、「大きな声を出す人」と意識されるから、とても会いづらくなるよ。
相手が大きな声を出していない時でも、「大きな声を出す人」として見てしまって怖くなるから。何も起きてない時から怖いんだ。
一方、(B)の意識なら、大きな声を出していない時には、まだ、かろうじてその人に会っていられるよ。人自体が怖いんじゃなくて、大きな声が苦手という意識だから。
ということで、この(A)のように、常に「どういう人か」を考えているような認知に偏っていることを仮に『ひと思考』と呼んでみたい。ひと思考は、1つの言動で、1人の人間の価値を決めつけてしまうこと。決めつけという点で、ひと思考は、『レッテル貼り』の亜型と言えるかな。
ポイントは、「人という全体を評価するか、言動という部分を評価するか」ということだよ。もう少し具体例を挙げてみよう。母親が息子の相談をする時の話し方の2パターン。
(A)「あーいうことする息子が受け入れられないんです」
(B)「息子のあーいうところが受け入れられないんです」
微妙な言葉使いや順序が違うだけで、意味がだいぶ変わってしまうんだ。
(A)だと、もう息子と同居していることが苦しくて、かつ、そんな自分への罪悪感もひどくて、「もうどうしたらいいかわかりません(泣)」という感じになる。
(B)なら、まだ同居自体が苦痛と言うほどじゃなくて、「普段は、息子にもいいところがあるんですけどね」という感じで話が続いたりする。
つまり、(A)は全否定。(B)は部分否定。
息子の存在そのものが嫌なのか、あるいは息子の言動の一部が嫌なのか。
それって、受け取る息子側からしてみると、結構大きな違いを感じると思わない?
落ち着いて考えてみると、人自体が嫌なのではなくて、相手の言葉や行動が嫌なんじゃないかな。もしそうならば、ちゃんと伝わるように言葉を使いたいよね。
他にも、『ひと思考』には、次のような言い方があると思うよ。
「○○する人って信じられない」
「あの人って○○な人だよね」
これは、他人に対してだけじゃなくて、自分についてもやってしまいがち。
「私って○○する人だから」
「○○な自分が許せない」
パーソナリティ障害の人は次のように言う。
「ダメな私を変えたい」
そうではなくて、せめて、次のように言い換えたいね。
「私のダメな部分を変えたい」
パーソナリティ障害の人が、自分にダメ出しはできても、反省して行動を変えていくことができないのは、『言動』という『部分』に意識が向かず、常に『人』という『全体』に意識が向き過ぎているから。
変えたいと言っても、全否定では、反省にならず、ただのダメ出しになるんだよ。そもそも人は変わりたくない生き物だし、まるごと変われるはずなんてないから、「私を変えたい」という意識では変わることができない。私そのものではなく、一部分だけなら、もしかして「変わってもいいかな」とか「変えてみようかな」って思えるかもしれないよ。部分否定というのは、裏を返せば、部分肯定という前提があるからね。「ここは変えた方がいいけど、変えない方がいいところもある」と思えた時はじめて、反省して行動を変えていくことができるんだよ。
「どういう人か」という見方ではなく、「どういう言動か」という見方に意識的に変えていこう。「何々をした誰々」ではなく、「誰々が何々をした」という話し方ができるようになろう。一部分だけを見て全体を決めつけないこと。1つの事柄で1人の人柄を決めつけないこと。そうしたら、いつか「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の意味がわかるかも。