主体性

n1.png「特に話すことがないんだけど」

c1.png「自分の話したいことを話していいんだよ」

n1.png「質問してくれたら話せるんだけど」

c1.png「質問に『答える』のは主体的に『話す』のとは違うから、こっちから質問はしないよ」

n1.png「じゃあ何を話したらいいのか教えてよ」

c1.png「カウンセリングで何をテーマにして話したいのか考えてみて」

n1.png「だったらカウンセリングは何をテーマにするものなのか教えてよ」


かうんさるーから一言
c3.png「折り紙は、折り方知らなきゃ、ただの紙」

目の前に折り紙を置かれた時、折らずに眺めているだけでは、つまらない。
何も考えずに、半分に折り曲げてみても、つまらない。
知っているものだけを延々折っていても、つまらない。

つまらないただの紙から、新しい何かが生み出される時、折り紙ははじめて面白くなる。

折るだけじゃない。もし、折らないなら、絵を描いても構わない。破けちゃったなら、ちぎって貼り絵にしてもいい。とにかく、それを使って何かをするというのが大事。もし、そのどれもしないなら、折り紙なんてくしゃっとまるめて捨てたくなる、ただの紙屑のままだ。

それでは、まるで誰かの人生のようじゃないか───

さて、今日は、主体性についての話だよ。
主体性とは、自分の言動は、自分が選択して決めているってことね。「相手がこうだから(原因)、自分はこうした(結果)」と受身で自動的に流されるのではなく、「相手がこうだから(きっかけ)、自分はこう考えて(原因)、自分でこうした(結果)」と自分で決めて自分を動かしている感覚のこと。2つの文章の違いがわかるかな?原因を自分の中に置く、言い換えれば、責任を自分の方に置くことが主体的であるとも言えるね。

この主体性というのが、パーソナリティ障害の人達の中で育っていない場合が結構あるよ。

折り紙の例えでいうなら、パーソナリティ障害の人達は、唯一折り方を知っている紙飛行機を、何歳になっても飛ばし続けているようなところがある。もう、おもしろくないのに、誰かと遊びたくて、自動的に折ってみてはあちこち飛ばしてしまう。でも、紙飛行機をいくら折っても興味をもたれることはあまりなく、むしろ逆に、迷惑がられてしまうことも多いという結果になってしまう。そして、そんな自分に嫌気がさしてしまう。

あるいは、彼らは「うまく折れる方法を教えてください」といきなり人に頼んでしまう。折ったことがあるのは何?と訊けば、「ないので教えてください」と返してくる。何を折りたいの?と訊けば、「どんなものが折れるのか教えてください」と返してくる。どんなものが折れると思う?と訊けば、「わからないので教えてください」と返してくる。

いろんな折り方があるんだから、調べてみたりして、新しいものを折ってみればいいのに、「折れない」と言う。複雑な折り方を覚えようとせず、「不器用だからできない」と言って折ろうとしない。きっと、不細工な出来に耐えられないと予想するから折りたくないのだろうけど。最初は下手でも、だんだんうまく折れるようになればいいのに。何も見ずに折れるようになったら、ちょっとは自信になるのに。最終的には、「折れるようになったとしても別に面白いとは思えそうにない」とやる前から自分の気持ちを悪い方に予想してしまう。結果的に、折れないのではなく、折らない。だから、折れるものが増えないし、うまくならないから、楽しくもならない。

できないのではなく、やらない。

そこに直面させると、たいがい怒る。
「ひどい!できなくて苦しんでるのに、やってないだけみたいに言わないでください!」と。

自分で「やらない」ということを主体的に選んでいるはずなのに、それがなかなか認められない。「やりたいのにできないんです」「やりたくてもできないんです」と、主体性を否認し、自分にはどうしようもない、自分には責任がない、だから責めないでほしいと訴える。驚くほど、主体的に考えたり行動したりすることが身についていない。それってかなり生きていく上では辛いことだろうと思う。日常的に、今自分がどこに立っていて、どこに向かっているのか、どこに向かいたいのか、見当がつかないまま、自分の身に降りかかってきた出来事を日々こなしていくってことだからね。

そんな辛さが根底にあるからだと思うんだけど、「教えない方が悪い」という姿勢にもなってしまう。「どうしたらいいか知っているなら教えてくれればいいじゃないですか。知っているのに教えないのは意地悪ですよ。私は悪くないです、意地悪してるあなたの方がひどい」と。

自分に主体性がないと、こういう風に相手に責任転嫁をしてしまうことも多くなる。

彼らは、親から人生の楽しみ方、人生の折り方を教えてもらえなかったんだから仕方ないと言うかもしれない。全てが本人のせいというわけではなく、親のせいという側面も確かにある。でも、もう親はその責任をとってくれはしない。だから、どうにかこうにか自分でカウンセリングに行くしかないと、しぶしぶ重たい足を引きずって来ることになる。

そんな彼らは、口をそろえて「自分がどうしたいのかわからない」とカウンセリングで言う。

悩んでることがあってカウンセリングに来たのに、「何を話したらいいですか?」と切り出す人も多い。話したいことを話せる場なのに、自ら話そうとしない。「話すことがない」「話したいことがわからない」と言う。「質問してくれれば話せます」とか「カウンセリングがどういうものか教えてもらえれば話せます」と言う。つまり、答えようとしているだけで、自ら考えようとしていない。自分は何もせずに、カウンセラーに何かしてもらおうと思っている。

「じゃあ、どうしたら主体性をもてるようになるんですか?」

そう結論を知りたがる質問ばかりする。どこまでも主体性を放棄し、責任転嫁をしてくる。せっかく自発的に来たはずなのに、カウンセリングで話すという点では自分で責任を負い続けられない。「来たくて来ているわけじゃない」と責任から逃れようとしてしまう。「必要があるっていうなら来ますけど」とカウンセラーのせいにしようとする。

カウンセリングに来ると、まず、この主体性の問題が浮き彫りになる。

「教えてくれない」と言って怒るか、「役に立たない」と言ってカウンセラーのことを見限ろうとする。彼らのそれまでの人間関係のパターンがカウンセラー相手にも起こるんだ。でも、カウンセラーの方から途中で投げ出すことはないので、そんな自分のパターンに向き合って、カウンセリングが苦しいと感じながらも乗り越えて考え続け、試行錯誤し続けると、ようやくほんの少し主体性というものが芽を出してくる。そこからがようやくカウンセリングらしいカウンセリングになる。もちろん、そこに至るまでもやっぱりカウンセリングというものなんだけどね。諦めずに続けていくのが大事だよ。

さて、楽しいこと探しはもうやめよう。「楽しい」より「楽しむ」のが大事だ。
つまらないものをどう楽しくするか考えて行動しよう。

面白いことないかな。
じゃなくて、
面白くできないかな。

これ役に立たないな。
じゃなくて、
どうにか役に立てられないかな。

あいつ使えねー。
じゃなくて、
あいつどうやったら使えるようになるかな。

以上、今日は主体性の話。
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